- 北海道は何故「県」でなく「道」なのか?
- 「道」ってどういう意味なの?
- いつから「北海道」という名称になったの?
などと疑問に思っている人は、多いのではないでしょうか?
私も子供の頃に、都道府県名を丸覚えした記憶はあります。
でも、何で「道」なんだろうと思ったことは、何度かありました。
何かスッキリしませんよね。
今回は、そんな思いを解消するために、
- 「県」でない理由は?
- 誰が「北海道」と名付けたの?
- 「北海【道】」になった語源や由来は?
について、徹底的に関連記事をリサーチしました。
この記事を最後までお読みいただくと、「へぇ~、なるほどね。」とこれまでの疑問が解消しますよ!
北海道が【道】の理由は?
さて、【北海道】というと、どんなイメージをお持ちでしょうか?
おそらく「広~い!」「デッカ~イ!」とこんなイメージをお持ちではないでしょうか。
果てしなく広がる大地のイメージですよね。
そうです。この【広~い】ことが「北海道」の【道】につながる最大のポイントなのです。
以下、【道】になったその理由について、一つずつ解説していきます。
理由①北海道が広いから【地域区分としての「道」】
北海道は広いから、「国」より広い「道」の単位で表しました。
「国」や「道」は、日本の律令制を基盤に設置された「地方行政区分」であり、「地理的区分」の基本単位でした。
ポイント
・古代律令制より、地理的な広域の地域区分を「道」という単位で表していた
・当時の「国」より広い単位、いくつもの「国」の集合地域区分が「道」だった
ところで、北海道の広さってどれくらい? と聞かれてもピンときませんよね。
面積で見てみると、日本の国土の約22%を占めています。
また、関東地方(東京都・神奈川県・埼玉県・千葉県・群馬県・栃木県・茨城県)1都6県の合計面積で比較すると、北海道は約2.5倍の面積になります。
いかに広いかがわかりますよね。
理由②行政の効率化を図るため【行政区分としての「道」】
北海道の広さのため、行政の効率化を図るには、一つの行政区分の方が良かったのです。
ポイント
・明治2年に初めて「北海道」と命名された時、11カ国が設定された
・それぞれの「国」が独立した行政区域として認められていなかった
・北海道全域の【道】が1つの行政区分とされた
そこで重要なのが、「五畿七道」の制度。
奈良時代以降、日本は古代中国の唐を範とし、天皇中心の「律令国家」を目指しました。
その律令制度の基盤となるのが「五畿七道」と呼ばれる行政区分です。
当時の日本全土を8つのブロックに分けた行政区画区分でした。
五畿七道とは
五畿は、京都を中心とする周辺の大和、山城、摂津、河内、和泉の5つの国
七道は、東山道、東海道、南海道、北陸道、山陰道、山陽道、西海道の七道(地理的な行政区分であり、街道名としても使用されていた)
この「五畿七道」は、江戸時代まで続いていきます。そして、その後の北海【道】の礎になったといえます。
知っ得!北海道の歴史と雑学をご紹介!
北海道の歴史って知っているようで知らないことも多いですよね。
それでは、以下北海道にまつわる知って得する歴史や深~いエピソードを一つずつご紹介します。
- 江戸時代は誰が住んでいたの?
- 「道名」の候補名はいくつあったの?
- 「県」の時代は、何県あったの?
- 北海道の名付け親って、どんな人だったの?
順番に見ていきましょう。
北海【道】の歴史
北海道は、江戸時代まで現在の函館あたりが松前藩という日本の領土でした。
そして、それよりも北はアイヌ民族が住む「蝦夷地」だったのです。
当時は外国の土地として認識されていました。
そこへ18世紀以降、勢力拡大を図るロシアが南下政策を取り、蝦夷地にまで進出を開始しようとしました。
ロシアが蝦夷地に迫ってきたので、明治政府は危機感を持ったのです。
「蝦夷地」という名称のままでは、領有権があいまいになると考えました。
蝦夷地に名前を付け、日本の領土として定めることにより、日本の領有権を主張したのです。
1869年(明治2年)に明治政府は、律令制の「五畿七道」をふまえ、「蝦夷地」を改に「北海道」と命名し、「五畿八道」と呼ばれるようになりました。
現在の「北海道」は、その名残と言えます。
北海道も「県」の時代があったの?
ところで、北海道にも「県」の時代があったというと意外に思われるのではないでしょうか?
以下の表は、明治以降どのように行政区分が変遷していったのかをまとめたものです。
明治以降の行政区分の流れ | ||
1868年(明治元年) | 「函館府」設置 | 明治新政府により、「蝦夷地」を統治する政庁として開設 |
1869年(明治2年) | 「函館県」に改称 | 「開拓使」の設置に伴い「県」に改称 |
1869年(明治2年) | 「北海道開拓使」設置 | 北海道全域を一つの行政区分として管轄 |
1882年(明治15年) | 「三県一局」の「県」制に移行 | 北海道を三県に分けるが、非効率で機能せず、4年で廃止 |
1886年(明治19年) | 「北海道庁」設置 | 結局、北海道全域を一つの行政区分として管轄 |
現在に至る |
上記のように、明治2年に北方開拓のために「開拓使」が設置されます。
それから明治15年まで継続され、北海道開拓使の10年計画の終了とともに「県制」に移行。
「三県一局」時代と呼ばれる「函館県」・「札幌県」・「根室県」の三県に北海道が分けられたのです。
しかし、当時の北海道全体の人口は少なく、三県の人口が不均衡でした。官吏の数だけ多くなり非効率的な運営になったのです。
結局、批判が高まる中、4年後の明治19年に「三県一局」は廃止になりました。
そして、改に「北海道庁」が設置され、以後北海道は全体で一つの行政区分として今日に至っています。
「北海道」の名付け親は誰なの?
「北海道」の名付け親は、「松浦武四郎」という蝦夷地の有名な探検家です。
江戸末期に活躍し、特に蝦夷地については、当代一番の探検家でした。
松浦武四郎は1818年(文政元年)伊勢国(現在の三重県松阪市)で生まれます。
江戸時代の終わりから明治時代にかけて、13年間で6回蝦夷地探査を行います。
蝦夷地のアイヌ人とはあまり交流のない時代に、松浦武四郎は多くの交流を図り、アイヌの文化や生活を日本人に伝えようとしました。
そして、「石狩日誌」「十勝日誌」「知床日誌」など、151冊の紀行本をまとめました。
さらに、その集大成として、蝦夷地の地図「東西蝦夷山川地理取調図」を作成しています。
「北海道」の語源と由来は?
明治政府は、松浦武四郎に蝦夷地の候補名を依頼しました。そして、武四郎は「6つの候補名」を政府に提案するのです。
- 「北加伊道」(ほっかいどう)
- 「日高見道」(ひたかみどう)
- 「海北道」(かいほくどう)
- 「海島道」(かいとうどう)
- 「東北道」(とうほくどう)
- 「千島道」(ちしまどう)
政府は、「北加伊道」を採用し、最終的に「加伊」は「海」に変更され「北海道」という名称になりました。
6つの候補名の中で、松浦武四郎は「北加伊道」を最も政府に進言していました。
何故推していたのでしょうか?
1857年、武四郎は北海道の北部を流れる天塩川(こしおがわ)流域を調査しました。
その時、「加伊」というアイヌ語が「この土地で生まれたもの」という意味を知ったからです。
「日本の北にあるアイヌ民族の皆さんが暮らしてきた大地」という思いをこの「北」の「加伊」の「道」に込めて名付けました。
松浦武四郎のアイヌの人々に対する厚い心情がうかがえます。
まとめ
以上、「北海道は何故【道】なのか?県ではない理由は?」と題しご紹介してきました。
改めて今回の内容をまとめると以下になります。
北海道は何故【道】なのか?
「県」でない理由は?
こうやってまとめてみると、結局北海道全域を対象とする「道」としての一括管理の方が良かったのでしょう。
この記事が少しでもお役に立てれば幸いです。