「日本三大祭」「日本三大芸能」「日本三大美人」など、「日本三大〇〇」と言われるものはたくさんありますが、「日本三大悪女」をご存知でしょうか?
諸説ありますが、日本三大悪女と言われているのは以下の3人です。
- 北条政子
- 日野富子
- 淀殿
「悪女」と聞くと怖いイメージがありますが、ミステリアスで何だか興味をそそりませんか?
この記事では「日本三大悪女」について、彼女たちが悪女と言われる理由を徹底解説します。
歴史が苦手な人でも興味が持てるように、簡単にまとめてみました!
北条政子が悪女と言われる理由
まず、三大悪女として名前が上がるのが「北条政子」です。
北条政子について簡単にまとめてみました。
1157年(保元2年)伊豆の国の豪族、北条時政の長女として産まれる
1177年(治承元年)20歳の時に源頼朝と恋愛結婚
1225年(嘉禄元年)69歳の時に病気のために亡くなる
政子の父・北条時政は戦に負けて伊豆に流されてきた頼朝の監視役でした。
その時に政子と頼朝が出会い、父が不在の時に恋仲になります。
もちろん流人である頼朝との恋愛は父から反対されましたが、それを振り切って結婚に至りました。
嫉妬心が強く恐妻家だったと言われる北条政子が、悪女と言われる理由は以下の通りです。
浮気は絶対に許さない!!「亀の前事件」
政子が二人目の子どもを妊娠していた時、頼朝は亀の前という女性を愛していました。
亀の前は容姿が良く優しい性格の女性で、頼朝が流人の時から仕えた女性です。
懐妊中に、隠れて亀の前と関係を持っていた事を知った政子は激怒。
義理の祖父・牧宗親に命じて、亀の前が住んでいた屋敷を破壊してしまいました。
政子を恐れて、他の側室も子どもができても隠すようになりました。
浮気を許さなかったのは嫉妬心だけではなく、北条の身分が低いため、他の血筋の子どもができてしまったら敵わないという理由もあったと考えられます。
当時は公家や武家が、勢力を維持・拡大するために複数の女性を寵愛し、多くの子供をもうけるのはごく普通の時代でした。
一夫多妻が当たり前の時代に、これを許さなかったことが悪女と言われる一因となっているようです。
実子を死に追いやり権力を得る
頼朝の死後、政子は息子・頼家の後見となり、出家して尼になり「尼御台」と呼ばれます。
息子の頼家は蹴鞠三昧で鎌倉幕府を束ねる力はなく、更には政子の実家の北条家を軽視した行動を取りました。
そのため頼家は政子に出家を命じられ、将軍職を奪われたあげく、23歳の若さで暗殺されてしまいます。
後に将軍となった次男の実朝も、頼家の息子によって暗殺されています。
二人の息子を失った政子は「尼将軍」となり、幕府の権力を手に入れました。
そして政権は、100年以上北条氏が持ち続けることになります。
名演説で軍の士気をあげ、上皇を流罪に追い込む
1221年に起こった承久の乱では、幕府軍は朝廷を敵に回すことへの動揺が広がっていました。
そんな時、名演説と言われる「最期の詞(ことば)」で軍の士気をあげました。
承久の乱で勝利した政子は、敗れた朝廷の後鳥羽上皇へ沖ノ島への流罪を命じ、さらに幕府の権力を拡大させました。
朝廷と争い、時の上皇を島流しにしたことが、北条政子が悪女と言われるエピソードの一つにあげられます。
日野富子が悪女と言われる理由
次は稀代の悪女と言われる「日野富子」についてです。
1440年(永享12年)足利将軍家と縁戚関係を持つ日野家で産まれる
1455年(康正元年)8代将軍足利義政と結婚
1496年(明応5年)57歳で死去
日野家は名門で、足利将軍家の正室は日野家の女性とするのが慣例になっていました。
富子も慣例通り、16歳の若さで4歳年上の義政と結婚します。
富と権力に執着したと言われている、日野富子が悪女と言われる理由は以下の通りです。
第一子の死を乳母の呪いとし、乳母を島流しに
結婚から4年後に、待望の第一子が誕生した富子。
しかし、産まれたその日に亡くなってしまします。
富子はこれを、義政の乳母である今参局(いままいりのつぼね)の呪いのせいだとして、乳母を島流しにしてしまいました。
今参局は琵琶湖の沖島に流刑となった後、命を狙われ自害しています。
富子は他に、義政の側室4人をも島流しにして追放しています。
応仁の乱のきっかけを作った?
第一子の死後、富子は2人の子を授かりますがどちらも女子で、後継となる男子が10年近く産まれませんでした。
実子の後継をあきらめた義政は、出家して僧侶になっていた弟の義尋(ぎじん)を足利義視と名乗らせて後継にしようとしました。
ところが、その翌年に富子は第一子義尚(よしひさ)を授かります。
義政は幼い義尚が成長するまでの間、弟の義視を将軍にしようと考えますが、富子は実子の義尚を将軍にと望みます。
これが義視派VS義尚派の対立となり将軍後継争いが勃発。11年にもわたる「応仁の乱」のきっかけになったとも言われています。
戦にかかるお金を両軍に貸し付け巨万の富を得た
富子は応仁の乱で細川勝元側の東軍についていましたが、なんと東西両軍にお金を貸し付けていました。
莫大な収入を得て、稼いだ資産は現在の価値で60億円とも言われています。
自身も関係している戦で両軍にいい顔をして稼いでいたため、評判も最悪だったようです。
応仁の乱が起こっている最中に足利義政は隠居して、9代将軍に実子の足利義尚が就任。
母である富子が後見となり莫大な権力を得ます。
しかし富子は応仁の乱を早く収束させることではなく、私腹を肥やす事に熱心に。
京都は11年にも及ぶ戦乱で火の海となり、庶民が苦しまされてしまいます。
富子はさらに応仁の乱が収束した後も、京都の7つの入り口に関所を設置し、「内裏の修復費」「諸祭礼の費用」という名目で関銭を徴収しました。
収入が富子の懐に入る仕組みを作り、関所から賄賂も受け取っていたと言われています。
庶民をかえりみない行いが、日本三大悪女の一人と言われる要因だったのではないでしょうか。
淀殿が悪女と言われる理由
最後にご紹介するのは、豊臣秀吉の側室として有名な「淀殿」です。
淀殿については以下のとおりです。
1596年(永禄12年)浅井長政と織田信長の妹・お市の方の長女として産まれる
1588年(天正16年)豊臣秀吉の側室となる
1615年(慶長20年)大坂夏の陣で大坂城が落城し自害
秀吉が淀殿の懐妊を喜んで、京都山城国の淀城を与えたことで「淀殿」「淀の方」と呼ばれるようになります。
淀殿は二度の落城により父と義理の父を亡くしましたが、親の仇である秀吉の側室になったという波瀾万丈な生涯を送りました。
プライドが高かったと言われる、淀殿が悪女と言われる理由は以下の通りです。
秀吉以外の子を懐妊?大野治長と密通の噂
秀吉の子を懐妊した淀殿。
しかし、父親は秀吉ではない別の人物ではないかという噂があります。
秀吉には正室の北政所がいましたが、子どもができることはありませんでした。
また多数いる側室も誰一人子どもができなかった事から、秀吉は子どもを持てない体であったと言われています。
そのため、淀殿が世継ぎ欲しさに大野治長と密通して懐妊したという説も。
これが本当だったらなかなかの悪女です。
豊臣家を滅亡に追いやった
秀吉の死後、淀殿は豊臣家を存続させるため、まだ幼い秀頼の後見人として政治に介入します。
関ヶ原の戦いが起こった1600年(慶長5年)、秀頼は8歳。淀殿が豊臣家の実権を握りました。
淀殿は関ヶ原の戦いに敗れた後、家康から徳川家に従うように要求されました。
征夷大将軍となった家康は、息子の秀忠に将軍職を譲る際、秀頼と淀殿に二条城に上洛してこれを祝うように求めました。
しかし淀殿はこれを拒否し、「要求を呑むくらいなら秀頼を殺して自分も自害する」と突っぱねたというエピソードもあります。
家康からの要求を拒否し続けた結果家康との対立を深め、大坂冬の陣・大坂夏の陣に至り、どちらも敗北してしまうことに。
そのため、天下の豊臣家を滅亡させたのは淀殿と言われるようになりました。
しかし、淀殿を悪女と仕立て上げたのは徳川家の策略であったのではないかという見方もあります。
まとめ:日本三大悪女は時代をたくましく生きた女性たち
今回は「日本三大悪女」について解説しました。
3人を悪女と思うかどうかは、人によって評価が分かれるようです。
歴史は勝者によって作られると言われますので、今後歴史の研究が進めば彼女たちが悪女であったと言われなくなる日が来るかもしれません。
しかし「日本三大悪女」と言われる3人はいずれも男性にも負けない、影響力を持った女性だったことは間違いないようです。
たくましく生きた女性たちはとても魅力的に感じます!